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[野迫川村のマージナルな森](第2話)クマノザクラ
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- 小泉 潮(野迫川村役場)

もろともにあはれと思へ山桜 花より外に知る人もなし――。
百人一首の歌番号66番は、平安後期の僧侶で歌人・前大僧正行尊の一首。俗世を離れ、孤独で厳しい山岳修行に励んでいた作者が、山奥でふと見つけた桜に、胸を高鳴らせた瞬間を詠んだものです。思いがけず山中で出会った可憐な桜は、心にぽっと灯をともしてくれる――そんな情景が浮かびます。
紀伊半島南部に自生し、2018年に約100年ぶりの野生の桜と確認されたのが「クマノザクラ」です。地元では「早咲きのヤマザクラ」と認識されていましたが、“桜博士”で知られる勝木俊雄氏(森林総合研究所)が新種であると発見し、熊野地方にちなんで命名されました。
クマノザクラは熊野川流域を中心とする和歌山、三重、奈良の3県にまたがる南北90キロ、東西70キロの山地に分布します。
野迫川村はその北西端にあり、4月上中旬には村のあちこちの山の斜面で見ごろを迎えます。淡紅色の花々は青空に映え、紅紫色のツツジや黄色のレンギョウとの競演を通じて、早春ならではの景観を描き出します。
花が咲くときに葉をつけないソメイヨシノと同様、クマノザクラも花が先に咲き、葉はやや遅れて出てくるため、花だけが際立ちます。観賞用としても適しており、観光資源としての期待も高まっています。村では、日本クマノザクラの会と共催で、発見者である勝木氏を招き、分布調査イベントを開催しました。
勝木氏は、クマノザクラが国内10種目の野生種であると説明。現地では、風化が進んだ明るい法面によく出現することに加え、葉縁の「鋸歯」の形や葉身の形(狭卵形)、葉柄が無毛であること等、ヤマザクラやカスミザクラとの違いを見分ける方法について教えていただきました。
2日間の調査で20個近い個体の存在を確認することができ、位置情報を得ることができました。
一方で、ほとんどの自生地で後継樹が見られなくなっていることも指摘されました。シカの食害被害の拡大や、更新適地となる明るい林地がないことが要因に挙げられるとのことでした。貴重な地域資源として、いかに保全しながら観光振興等につなげていくか。今後も分布調査を積み重ねながら丁寧に考えていきたいと思いました。
さて、冒頭の和歌――。行尊が見たのは果たしてヤマザクラだったのか、クマノザクラだったのか。そんな問いは、花を愛でる上では無粋でしょうか。最近、この和歌の解釈で胸に残った一節があります。
共に懐かしく思っておくれ。山桜よ。お前以外に、本当の私の心を、知ってくれるものはいないのだから。あんたが私をわからなくても、私があんたをわかってやれなくても、仕方がない。誰の心にも、ヤマザクラがあるんだ――『海に眠るダイヤモンド』(野木亜希子 河出書房新社 2025年9月)
誰の心にも、ひと枝の桜が咲いている。それは、誰かに見つけてもらうのを、静かに待っている。山に咲く桜に出合うたび、忘れていた何かが、そっと息を吹き返すのです。
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