Story

[野迫川村のマージナルな森](第3話)名前が樹木を記憶に変える〜熊野古道・小辺路の樹名板プロジェクト〜

連載

Date
Writer
小泉 潮(野迫川村役場)

“千尋”と言うのかい、贅沢な名だねえ。今日からお前の名前は“千”だ――。

スタジオジブリ製作の映画「千と千尋の神隠し」(2001年)は名前をめぐる物語でもあります。湯屋を営む湯婆婆に名前を奪われ、「千」として働かされることになった主人公・千尋。多くの試練を乗り越え、物語の終盤で彼女は自らの名前を取り戻します。

名前とは存在の証であり、かけがえのないもの。それを失うことは、自分自身を見失うことでもあるのです。だからこそ、名付けるという行為には、深い意味が宿ります。

名前をつけることは、関係性を結ぶこと――

そう言えるのではないでしょうか。人間だけでなく、動植物やモノも名付けられた瞬間、“あれ”や“それ” といった匿名の存在から、誰かと語り合える“何か”へと変わります。風景の中に埋もれていた、たった1本の木が、名前を得ることであなたの記憶に残ることもあるのです。

野迫川村では、こうした「名付け」の力を生かした新たな取り組みが始まっています。

村内を通る世界遺産・熊野古道「小辺路(こへち)」沿いの景観林の魅力発信を目指すプロジェクト。大阪府立佐野工科高(泉佐野市)と連携し、小辺路沿いの約30種の樹木に、オリジナルの名札(樹名板)を設置しました。

生徒たちが手がけた樹名板は、若い感性が光る独自のデザイン。科名や学名、生態的な特徴に加え、その木の用途(まな板や将棋の駒など)をかたどったり、果実・花のイラストを描いたりと、さまざまな工夫が凝らされています。外国人旅行者にも親しんでもらえるよう、英語表記も添えられています。

村では約300種の広葉樹が確認されています。新緑の季節には、ブナやウラジロノキ、コハクウンボクなどの淡い葉が森を柔らかな光で包み、秋には多様なカエデ類がそれぞれに鮮やかな黄や赤に染まります。訪れた外国人旅行者らが足を止め、写真に収める姿も見られました。

樹名板を頼りに木々をめぐることで、散策は観察へ、観察は対話へと変わっていきます。樹名板があることで、木々はただの背景ではなく、旅の記憶に残る「語り合う存在」となっていくのです。

名付けとは、風景に物語を与えること。そしてその物語は、誰かの記憶となって、森と人との関係を静かに育んでいくでしょう。

その他の読みもの

Other Stories