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野迫川村森林組合
昭和27年の設立以来、森林を所有されている方々への資金・物資等の斡旋や森林施業など、地域と共に歩みを続けて今日に至ります。近年は培ったスキルを活かして、国有林の森林管理請負や自治体管理施設の除草作業等、事業の幅を拡大して活動の場を広げており、今後は木材生産業への展開を目指して努めていきたいと考えています。 →職員募集はこちら
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インタビュー

野迫川村森林組合の代表を務める中本章さんは、昭和27年、森林組合が設立された年に入職し、約50年にわたり村の山林に関わってこられました。そんな、村の住民のなかで、誰よりも野迫川の山を見続けてきた中本さんに、かつての林業の様子、現在の課題やこれからの展望などについてお話を伺いました。
中本章(なかもとあきら)
「野迫川村森林組合」代表理事組合長。昭和27年、野迫川村生まれ。大淀高校を卒業後、村に戻り数年間、家業である林業の手伝いをしたのちに森林組合に入職。以来50年にわたり野迫川村内の森林整備、木材安定供給確保に関する計画作成や測量調査などに従事し、現在に至る。
野迫川村で林業が本格的に行われるようになったのは、戦後のこと。室町時代に始まったとされる吉野林業と比較すれば歴史は浅く、昭和30年ごろまでは林業よりも農業のほうが中心の産業でした。
なぜ、平地に比べ日照時間も短く、作物の育ちにくい冷涼な山間地にもかかわらず、農業のほうが盛んだったのか。理由は野迫川の川にあります。
中本さん:古くから、木材の搬出は筏を組んで河川で運ぶのが一般的でした。しかし、野迫川村内を流れる川は、木材を流送するには川巾、渓床、水量の点で不十分でした。
また、高野山と隣接することから、古くから熊野街道、竜神街道、大峯・高野街道がひらけていたものの、それらは峠や尾根筋を利用したもの。木材のような容積のある重量物の輸送には不向きであったため、比較的軽量で重量の少ない杓子、箸、樽丸、高野豆腐が生産され、坦夫や馬などによって輸送されたのでした。
野迫川の森林は村の経済、住民の生活を支える農業と往年の隆盛を誇った高野豆腐の生産のため、縁の下の力持ち的な存在として発達してきたといえます。
奈良県の林業地帯の流域別区分
1)奈良盆地を取り巻く周辺の山々を対象とする北部大和林業地帯
2)吉野川流域を形成する川上村、東吉野村、黒滝村を中心とする吉野林業地帯
3)北山川流域の上北山村、下北山村に展開する吉野北山林業地帯
4)十津川流域に位置する天川、大塔、野迫川、十津川村で形成する十津川林業地帯
これら4つの地帯の林業はそれぞれの発展過程、所有構造、林業経営、林業技術、森林資源の実態が異なる。(※下北山民俗資料館学芸員・松村奏子さんが作成した野迫川村史解説資料を参照)
そんな野迫川村で本格的に林業が盛んになったのは、戦後の国策である拡大造林の後押しを受けてのことでした。
戦時中に行われた乱伐により森林が荒廃し、戦後復興のために大量に必要な木材供給が追いつかなくなり、木材価格が高騰しました。この供給不足を補うために、日本政府によって木材生産を促す「拡大造林」の方針が打ち出されたのです。
拡大造林には、比較的成長が早く価格が高いスギやヒノキ、そしてカラマツなどといった針葉樹が適しており、広葉樹などで構成される天然林がことごとく伐採され、原野などに針葉樹が植えられ、多くの土地が人工林に作り替えられました。
中本さん:この村も昔は田んぼが多かったんですけど、昭和30年代ごろからみんな自分の財産を増やすのに、あちこちにスギやヒノキを植えたりし始めたんですね。拡大造林の「植えやや増やせや」という時代で、拡大造林事業補助金というのがあって、植林の費用の半分が負担してもらえたんです。半分の費用で植えた木が育って、それが売れたら儲かるというので、みんな必死に植えたんですね。
幹線道路も開通し、トラックの性能が向上したことも拡大造林を促しました。
中本さん:同じく昭和30年代、戦後の生活が落ち着いてきたのと、 橋本や五條など北部への道路が開通して、木材搬出用のトラックも改良されて流通が動き出したんです。
中本さんが森林組合に加わったときには、組合員、つまり山で働く人は実に200人を超えていたといいます。
中本さん:この辺の山は、植林してある程度したら街の人たちが購入してくれたんです。村に住む人らは山ごと売って、さらに管理の仕事を請け負う。そうやって生活してきたもんで、当時はたくさんの人が山仕事をしていました。
しかし、燃料が薪から電気・石油・ガスに変わった「エネルギー革命」や木材の輸入自由化などを要因に、木材価格が次第に下落していきました。
中本さん:昭和50年代ごろになると、 林業の形態が変わってくるわけです。それまでは、山主さんがいて、村の人々は山の管理人として、それぞれの人が作業員を抱えてやっていた。私ら組合は、調査や事務の仕事をしていればよかった。
それが、昭和60年代中頃になると、山がいよいよ売れなくなってきた。植林の仕事もなくなってくる。でも、その人らも商売をしないと暮らしていけない。そこで、森林組合が森林公社と話し合いをして植林を始めます。組合だけでも20-30人の従業員を抱えました。それが、だんだん少なくなって、今は10人いるかいないかになっています。
中本さんは、現在の課題は大きく2つあると話します。ひとつは当然、木材価格が低いままであるということ。山の木を切っても損をするだけでは、持ち主は誰も山に手を入れようとしません。
もうひとつは人材の問題です。働く人材もそうですが、森林を所有管理する後継者の問題もあります。昔は、高校卒業後に戻って来た若者は後継者兼労働者でもありました。自分も山で働きながら管理もし、他人の山の維持管理をやる人材でもあったのです。当たり前ですが仕事があっても働く人がいなければ、山を管理していけません。
中本さん:山仕事がなくなったことで、各集落に人がおらんくなって、山村が疲弊してしまった。働く人に来てもらって、その人らが各集落に分散して定着してくれるようにしていかんとあかんのやけども、材木の価値を転換するのは難しい。だからこそ、何か新しいアイデアを出して取り組んでいかんとあかんのです。古いことにこだわっとったら前に進めへんし、この60年間で育った木が山ほどある。それも生かしていかなあかん。
野迫川の林業は始まったのが遅い。それは仕方がなかったんです、林業地帯ではなかったんだから。でも、そのおかげで広葉樹がたくさん残ってる。この広葉樹を生かしていきたい。
その言葉通り、中本さんは平成25年からしいたけの菌床になる広葉樹の「おがこ」を生産する「きのこの村づくり」を推進し、イタツゴ谷付近の針葉樹林を伐採。コナラの広葉樹林に戻していっているそうです。
中本さん:スギやヒノキもおがこになる。ただ、それはぶなしめじとか、えのきとか、そういうきのこは育つんやけど、しいたけは広葉樹じゃないと育たないんです。広葉樹だけのしいたけの菌床ブロックを作りたい。
それと、広葉樹は製紙用のチップにもできる。針葉樹と違って萌芽(ぼうが|伐採した際に、残った根株から新しい芽が出て成長する現象のこと)するから、コナラは無理して植えなくても、伐採した方が早い。広葉樹一本でのおがこつくりができるのは、西日本ではうちぐらいちゃうかなと思うんやけどね。
また、野迫川村の山の特徴として、林道が豊富に通っていること挙げます。
中本さん:野迫川村の山は林道が通ってる。奈良県下でも一番じゃないかと思う。なんでかというと、前の前の村長が林道作りが好きやったのもあるけど、それこそ林業がここ60年の産業やから、所有者がわかってて、所有感覚も荒いから要地交渉がしやすかった。つまり、道を作るのに土地を提供してもらいやすかったという面がある。材の出し先さえあって、林道から細かい作業道を毛細血管みたいに張り巡らせたら、他の町村よりもきっと便利やし、そこは強みになるはずやと思う。
中本さんは今後について、既存の膨大な針葉樹林の活用はもちろん、広葉樹林業の比重を高める構想をもっています。
中本さん:森林組合を維持管理していこうと思えば、最低でも7〜8000万円くらいの売り上げを上げていかないといけないんです。それを今の人材の数でこなしていこうと思うと、仕事はとれるかもしれないけど、こなしていけない。だから、若い人材を雇用しようと思って動いてるんやけど、募集してもなかなか来てくれない。
中本さん:村に住んでこの仕事をするのが一番やけど、通いで林業をするような働き方など、働きやすさのところもよくしていかなあかんと思ってます。国とか県がこっちを向いてくれている間に、若い子らの就業機会をつくっていかないと。毎日コツコツできて、人とのコミュニケーションが嫌じゃない人は、この仕事は向いてると思うので。この記事を読んだ人で応募してくれたらうれしいですね。
そして、話は再度、広葉樹林への想いに至ります。
中本さん:広葉樹林は、水源としても、生態系や自然環境、野生生物との共生みたいな観点からしてもとても重要です。それに、あるとないでは村の明るさが違う。昔の山はやっぱり綺麗やったんです。錦の赤や黄色や。でも、荒れてくると広葉樹でもあかんのです。やっぱり人が入ってたから綺麗やったんですね。
そんな昔のような山に戻していきたい。ずっと言ってるんだけど、山に1haくらいずつ、尾根は尾根沿いに、谷は谷沿いに網を張って、鹿の食害を防ぐことでもとの自然に戻さんことには、山林内に青いものが何もない。ちょっと昭和40年代、無駄な植林が多すぎました。なかなか難しいのですが、若い人が賑やかにやっていけるように、考えてやっていきたいと思っています。
中本さんにインタビューさせていただいた旧北股小学校に、学校が存続していた当時の校長先生が野迫川村を描いた一枚の絵が飾ってあり、思わずカメラのシャッターを切りました。そこには、中本さんが言うような、とても綺麗な山の風景がありました。実際にこんなふうに見えていたわけではないでしょうが、きっとこの先生の心象風景と現実が重なった姿なんだろうと、その瞬間思いました。
今、日本全国の山々に広がる多様性の失われた針葉樹林は、戦後復興と経済成長のために人為的に作られた風景です。その風景を生んだ行動の背景には、子や孫を思って、懸命にスギやヒノキの苗を植えた人々の願いもあったかもしれません。一方で、経済的な安定や豊かさを求めて、人よりも得をする金儲けを目的に植えられたという側面もきっとあるでしょう。どちらにせよ、国も個人も、近視眼的に植林に取り組んだ結果、山の仕事が減り、人が減り、日本の山村のほとんどが存続の危機に直面しています。
その今を「仕方がない」と諦めて自然に還していくのか、「もう一度」と行動し共生の道を探るのか。僕は、中本さんの頭の中にあるような、校長先生の絵に描かれているような、美しい山の風景を見てみたいと思いました。
今、この時代を生きる私たちひとりひとりが、「あなたはどんな未来が見たいの?」と問われています。あなたは、どんな未来が見たいですか?
昭和27年の設立以来、森林を所有されている方々への資金・物資等の斡旋や森林施業など、地域と共に歩みを続けて今日に至ります。近年は培ったスキルを活かして、国有林の森林管理請負や自治体管理施設の除草作業等、事業の幅を拡大して活動の場を広げており、今後は木材生産業への展開を目指して努めていきたいと考えています。 →職員募集はこちら
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